群像小説ぜんぶ読む

古今東西の群像小説をぜんぶ読みます。群像小説以外の気になった作品を紹介することもあります。群像小説以外の気になった作品以外の普通の記事も投稿します。

2冊目:芥川龍之介『藪の中』

藪の中 (講談社文庫)

藪の中 (講談社文庫)

紹介

わたしが搦め取った男でございますか? これは確かに多襄丸(たじょうまる)と云う、名高い盗人でございます――。馬の通う路から隔たった藪の中、胸もとを刺された男の死骸が見つかった。殺したのは誰なのか。今も物語の真相が議論され続ける「藪の中」他、「羅生門」「地獄変」「蜘蛛の糸」など、芥川の名作、6編を収録。


※扱うのは表題作「藪の中」のみになります。


初出は1922年。およそ1世紀前の作品だ。
2020年2月に「藪の中」について考察するブログがあるなんて、芥川さんは思いもしなかっただろうな……。
いや、芥川さんのことだ。後世に脈々と語り継がれる作品となることを予期していたはずだ。
というのも、「藪の中」について書かれた論文数は、芥川作品の中でも屈指。議論が議論を呼び、呼ばれた議論がまた呼んで、呼んでないのに飲み会に来るやつってなんなの?
とにかく収拾がつかない。


議論のタネはあらすじにもあるが、「真相は果たして」という点に尽きる。
「藪の中」で描かれるのは、殺人と強姦のふたつの事件。それらを巡る、4人の目撃者と3人の当事者による独白がまとめられている。
つまり、視点人物が7人の、雨型の群像小説である。
(雨型については、「0冊目:群像小説ぜんぶ読む」を参照のこと)
overshow.hatenablog.com


雨型は構造がわかりやすい。「藪の中」は短いし、青空文庫で読める。
群像小説入門にうってつけ!
と太鼓判を押したいところだが、数多の論文が書かれるくらいの作品だ。一筋縄ではいかない。というか、モヤッとする。読後の爽快感がない。群像小説ならではの、つながる感覚もない。群像小説のおもしろポイントをそぎ落としている。


とはいえ、「真相は果たして」問題が立ち現れるのは群像小説ならではだし、群像小説という構造はだいたい押さえられる。
構造好きな私みたいな変態は黙って読めばいいし、これじゃあ群像小説の良さがわからないよ……ってピュアピープルは、下の次回予告を参照し、楽しみに待たれよ(更新はいつになるだろうか)。

次回予告

阪急電車 (幻冬舎文庫)

阪急電車 (幻冬舎文庫)

解説

多襄丸が武弘を縛り、真砂を強姦したところまでは、3人の当事者の証言は一致する。少なくともここまでは真実と見て良いだろう。
その後は、どうにでもなるし、どうにもならない。
投げやりで申し訳ないが、テクスト論については論文を当たってほしい。


おもしろいな、と感じたのは、容疑者3人が「自分が犯人である」と主張する点。一般的なミステリでは、容疑者は「自分は犯人ではない」と主張することがほとんどだから。

参考:東野圭吾私が彼を殺した』は雷型の群像小説であり、3人の容疑者が「私が彼を殺した」と主張する。いずれ紹介します。


芥川さんがどういう意図で書いたのかは、想像することしかできない。
おそらく真相をぼやかすことが目的だったのだろうけど。たぶん目論見通りだ。
状況設定自体は非常にシンプルだから、学生の教材としても用いられているようだ。ディスカッションのいい練習になると思う。


ブログの体裁をとっている以上、私の思考回路について書き記したうえで筆を置きたい。


ポイントは3人が他の2人の証言を聞いていない点にある。全ての証言を把握可能なのは、読者(と、おそらく検非違使)だけだ。
この群像小説の性質が、落とし穴になっている。
繰り返しになるが、3人は他の2人の証言を聞いていない(が、群像小説の構造上、別の話がつながっているように見え、全員が同じ空間にいるように錯覚してしまう)。


2人がそれぞれ別の証言によって1人を庇おうとしたせいで、証言が食い違ってしまった。
仮に同じ場所に3人が集められて順番に証言していったなら、齟齬は生まれず、問題なく真相に辿りつけただろう。
では、その庇われた1人が誰かといえば、それがわからない。多襄丸、真砂、武弘、どのパターンにも当てはめることができる。
多襄丸を武弘が庇う理由は薄いが、庇ったためではなく、「決闘で負けた」事実を歪曲するため(自分を庇うことにつながる)と考えればしっくりくる。
武弘の場合は「死に方の美学」に則っただけで、本当に自死はしていないだろうな、とは思う。


最後に言いたいのは、(特に一人称視点の)群像小説には要注意ということだ。

今村昌弘『屍人荘の殺人』は本格ミステリだったのか?

屍人荘の殺人 (創元推理文庫)

屍人荘の殺人 (創元推理文庫)

神紅大学ミステリ愛好会の葉村譲と明智恭介は、曰くつきの映研の夏合宿に参加するため、同じ大学の探偵少女、剣崎比留子とペンション紫湛荘を訪れる。しかし想像だにしなかった事態に見舞われ、一同は籠城を余儀なくされた。緊張と混乱の夜が明け、部員の一人が密室で惨殺死体となって発見される。それは連続殺人の幕開けだった! 奇想と謎解きの驚異の融合。衝撃のデビュー作!


Q.本格ミステリだったのか?
A.本格ミステリです。


タイトルはヒキです。
ブログを開いてもらうためにつけたキャッチコピーにすぎないわけで、あなたがこれを読んでいる時点で私の勝ちです。
あ、ちょっと、待って、ブラウザバックしないで…!


閑話休題
「ヒキ」は様々な場面で使われています。
冒頭の引用は、今村昌弘『屍人荘の殺人』(創元推理文庫)のあらすじです。
「想像だにしなかった」にアンダーラインが引いてありますが(原文では傍点。傍点のつけかたがわからない)、ここが『屍人荘の殺人』の「ヒキ」(=読んでみたいと興味を持たせる箇所)になっています。


「想像だにしなかった事態」がなんだったのか、読んだ方はすぐにわかるでしょう。
未読の方、まだ間に合います。ブラウザバックしましょう。読んだら戻ってきてください。ブラウザバックバック。


※※以下、だんだんネタバレが出てきます。未読の方はこのあたりで止めておきましょう。※※

作品紹介

さて、『屍人荘の殺人』は2017年、第27回鮎川哲也賞東京創元社)を受賞した作品です。
デビュー作にしてミステリランキング4冠を獲得し、19年12月には映画も公開しました。
めちゃめちゃすごいことです。


shijinsou.jp


繰り返しますが、デビュー作です。
デビュー作とは思えない、もっと大胆に言ってしまえば、「ミステリ賞のデビュー作とは思えない」ほどの大ヒットを記録しています。
その理由について考察したいと思った私は――。


自己紹介がまだでしたね。
大羽翔と申します。普段は「群像小説ぜんぶ読む」というブログを書いていますが、
overshow.hatenablog.com
そちらの更新が滞っているのをこれ幸いと、群像小説以外も扱ってしまおうと考えたわけです。
なお、本記事は、私が所属しているサークルで行った読書会を基に再構築しています。


さて、戻ります。
『屍人荘の殺人』が評価されたポイントは主に3点あります。

1.特殊設定を用いてクローズドサークルを作り出した斬新さ
2.それでいて本格ミステリの王道を逸脱しないストーリー
3.誰にでも思いつくことが可能で飲み込みやすい設定


読書会では、上記3点をひとつずつ詳説しましたが、同じことをやると6,000字を費やす羽目になるので割愛します。
結論だけ書いておきます。

『屍人荘の殺人』は、新人賞に応募された作品とは思えないほどに(あるいは作者が受賞・デビューを至上命題としたことにより)、分析と計算に基づいて書かれた極めて商業的な作品です。

角が立つことは望まないので補足しますが、あくまで個人の意見です。
ただ、作者・今村氏はこんなことを語っています。

ミステリを読んでいて「なにか退屈だな」と思うと、やっぱり配分がおかしかったりするんです。なかなか事件が起きなかったり、唐突に事件から始まったと思ったら前半に詰め込みすぎていたり。そういうことが気にならない作品って、やっぱり黄金律にちゃんと沿っている。

www.webdoku.jp

構造分析

ということで、ここからが本題。
『屍人荘の殺人』の「配分」を分析してみました。


なお、今回は「三幕構成(序破急)」の考え方に当てはめて見ています。
三幕構成は「幕」というくらいなので、本来、舞台や演劇、映画の脚本に用いられる概念です。三幕の時間比は1:2:1が理想とされています。
もちろん小説にも応用可能な概念ですが、読むスピードは人それぞれですよね。
そのため、「読む速度が一定」と仮定したうえで、ページ比に当てはめます。
『屍人荘の殺人』(創元推理文庫)は360ページなので、90ページ:180ページ:90ページの三幕に分かれます。


また、幕が切り替わる、盛り上がる箇所を「ターニングポイント」と呼びます。ターニングポイントは主人公に行動を起こさせ、ストーリーを別の方向へと進める役割があることを、合わせておさえておいてください。
下表で薄いグレーの箇所です。


f:id:overshow:20200223192648p:plain
『屍人荘の殺人』(創元推理文庫)ページ配分表


順に見ていきましょう。


①章 一致度0%
これはまったく三幕と一致していません。ターニングポイントはそれぞれ第三章、第五章の途中にあります。


②ゾンビ 一致度80%
第一幕のターニングポイントには、ゾンビがうようよと出てくるシーンがあたります。
第二幕のターニングポイントには、ゾンビがラウンジに侵入してくるシーンがあたります。
他にふさわしいものがなければ、これで良さそうです。


③事件 一致度0%
これも一致しない。タイトルに「本格ミステリだったのか?」と書いた理由はここにあります。
正確には、「本格ミステリとは別のところに、ストーリーが盛り上がるポイントがあるのでは?」ということです。
別のところとは、どこかといえば――。


明智 一致度98%
それぞれ20ページずつズレているので100%にしませんでした。
第一幕のターニングポイントでは、明智が死にます。
第二幕のターニングポイントでは、静原が出目ゾンビを突き刺した様子を見て、葉村が「明智さんを殺せるだろうか」と葛藤します。
そしてクライマックスでは、明智ゾンビを殺すことができない葉村のかわりに、比留子がとどめを刺し、「彼は、わたしのワトソンだ」と言い放ちます。

分析結果

こうして見ると、ターニングポイントにはゾンビがいます。
しかし、ゾンビに付随してあらわれる明智への葉村の感情こそが、ターニングポイントになっていると言えるでしょう。


それを裏付けるかのように、123ページで明智が死んだ後、語り手でもある葉村は意図的に明智を語りません。141ページの「明智さんのことは残念だけど」は比留子の台詞です。
その後第一の事件が発生したことで、葉村は明智を語らなくなります。辛いことがあったときに、別のことで気持ちを紛らわせることありますよね。蚊に刺された箇所に爪で痕をつけることで、痛みによって痒みを忘れるのとも似ています。


ターニングポイントは主人公に行動を起こさせ、ストーリーを別の方向へと進める役割がある、と書きました。
ストーリーを別の方向へと進めるため、主人公が行動を起こすためには、主人公が変化するかしないか、選択をする必要があります。
第一幕のターニングポイント以降、葉村は明智の話題を意図的に避けます。さらに、比留子に対して激昂するなど明らかな変化を見せています。
一方、第二幕のターニングポイントでは(その時点ではわかりませんが、クライマックスを踏まえて考えると)、変化しない選択をしています。もし変化する選択をしていた場合は、静原が出目ゾンビにしたことを、葉村は明智ゾンビにしていたはずです。

結論

つまり、『屍人荘の殺人』は葉村と明智の関係性を描いた物語であるといえます。
それをより効果的に描くためのジャンルとして本格ミステリが選ばれ、ディティールとしてゾンビが選ばれたと考えられます。
静原の述懐にもありましたが、ゾンビなら二度殺すことができます。
同じように、葉村にとって最愛の人である明智の死を「二度」描くことは、この設定でないと不可能なのです。


『屍人荘の殺人』は本格ミステリのトリックや、魅力的な特殊設定など、語るべきポイントがたくさんあります。
ただ、その目立つものたちに隠れたところで、葉村と明智の関係性を描くことこそに主眼が置かれていたのだとしたら――そうであってほしいな、と思います。


Q.本格ミステリだったのか?
A.本格ミステリであり、それ以上に人間ドラマです。

1冊目:伊坂幸太郎『ラッシュライフ』

ラッシュライフ (新潮文庫)

ラッシュライフ (新潮文庫)

  • 作者:伊坂 幸太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/04/24
  • メディア: 文庫

紹介

泥棒を生業とする男は新たなカモを物色する。父に自殺された青年は神に憧れる。女性カウンセラーは不倫相手との再婚を企む。職を失い家族に見捨てられた男は野良犬を拾う。幕間には歩くバラバラ死体登場――。並走する四つの物語、交錯する十以上の人生、その果てに待つ意外な未来。不思議な人物、機知に富む会話、先の読めない展開。巧緻な騙し絵のごとき現代の寓話の幕が、今あがる。


2019年が終わろうとしていることとは一切関係ないが、ブログを書くことにした。


「群像小説ぜんぶ読む」記念すべき1冊目は、伊坂幸太郎ラッシュライフ』だ。
私が群像小説にはまるきっかけとなった1冊である。
群像小説ランキングをつくるとすれば、ダントツの1位。群像小説だと認識して読んだ初めての作品でもある。
そのため、名実ともに「1冊目」になるが、2冊目以降は読了順やオススメ順とは一切関係なく、純粋なる順不同(純順不同)であることを明記しておく。


そもそも『ラッシュライフ』を読むきっかけが特殊だった。
大学教授の特別講義を受ける機会があり、そこで取り上げられたのが『ラッシュライフ』。群像小説の群像たる部分が詳らかに解説された。
群像小説という時点で、どこかで何かがつながることは自明であるため、「つながること」自体を明かされても何も問題はない。
つながると理解したうえで、実際につながったときに驚く。それこそが群像小説を読む楽しみだ。


しかし、その講義は事情が違った。
「どこで何がつながるか」まで明確に、親切丁寧な表を交えて明かされたのだ。
ネタバレ断固反対の皆様におかれましては、そのような仕打ちを断じて許せないだろう。
それだけで読む気を削がれてもおかしくない。


幸いなことに、私はネタバレをさほど気にしないうえに、たいして真面目に話を聞いていなかった。
綺麗にまとまった表を見て、「こんなに計算しつくされた小説があるのか!」と感動を覚え、すぐに読んだ。


こんなふうに、私と『ラッシュライフ』との出会いは半ば強引だったが、本ブログではネタバレ断固反対の皆様にも配慮をするのでご安心を。


さて、あらすじにもあるとおり、『ラッシュライフ』は4人の物語が並走する、雷型の群像小説だ。
(雷型については、「0冊目:群像小説ぜんぶ読む」を参照のこと)
overshow.hatenablog.com


1冊目なので再度説明しておこう。
雷型は視点人物の物語がいくつかに分けられ、少しずつ進んでいく。
仮にA、B、Cの3人が視点人物だとすれば、A①→B①→C①→A②→B②→C②→A③…と進んでいく。
当然だが、視点人物は少ないほどわかりやすく、多いほど複雑になる。
余談だが、初めて群像小説に触れた若き日の私は、何度もページを戻るというこれまでにない読書体験をした。指が足りなくなるところだった。
4人分の物語を憶えていられずに、途中で投げ出してしまうこともあるだろう。


ちょっと待ってほしい。
各視点人物の物語がつながる快感を待たずして、諦めてしまうのはなんとももったいない。


その点、伊坂幸太郎は親切だ。

「あれ、そんなの書いてあったっけ?」と前のページまで戻って確認しなければならないトリックって、僕は読者として苦手なんですね。だから、ページを前まで戻らなくてもいいように、電車の中とか休憩時間とかの合間にバーッと読んでいるというぐらいの集中の度合いであっても分かるように、大事なシーンは印象づけておこうという気持ちはいつも持っています。伏線をくっきりと印象づけるものにしたり、記憶に残るものにしたりするほど、ここは伏線なんだよなとバレてしまう危険性は増えますけど、でも、だからと言って分かりにくくしちゃったら意味がない、と僕は考えています。(『文藝別冊 総特集 伊坂幸太郎』)


伊坂幸太郎は、読者が憶えておくべき伏線を、強調して書いてくれる。
本人は「ここは伏線なんだよなとバレてしまう危険性は増えますけど」と語る。
一般的に、伏線は気づかれないほど良いとされ、明かした際の驚きが大きいほど良いとされる。


とんだ矛盾である。
この相反するふたつのバランス感覚に優れた作家・伊坂幸太郎が描く群像小説『ラッシュライフ』は圧巻だ。


本を読んで気持ちよくなりたければ、今すぐ読んでほしい。
季節がら、こたつで寝転がりながら読めば、もっと気持ちいい。


次回予告

2冊目:芥川龍之介『藪の中』

藪の中 (講談社文庫)

藪の中 (講談社文庫)


解説

※※以下、ネタバレを含みます※※


「解説」なんて仰々しいネーミングだが、1冊目なので手探りで進めていく。


さて、人に本を薦めるとき、いちばん留意しなければいけないことはネタバレだろう。
ネタバレは、言いかえれば、「その本を読んで驚いたポイント」だと思う。
現在映画が絶賛公開中の某ミステリ小説を例に挙げれば、「ストーリーとしてのネタバレ」「設定(構造)としてのネタバレ」の2点を、読者が非常に慎重に扱っていた印象がある(それは映画の宣伝でも顕著だった)。
つまり、この2点において驚きを伴う作品だったということだ。


ラッシュライフ』も「設定(構造)としてのネタバレ」を慎重に扱うべき作品だ。
簡単に言ってしまえば、「4人の視点人物が別の日を過ごしている」ことが、『ラッシュライフ』のキーになっている。
しかし、読者は「4人の視点人物が同じ日を過ごしている」と誤認してしまう。


何故そのような誤認が起きるのかといえば、「同日の出来事だと思わせるテクニック」が用いられているからだ。
以下、引用は全て新潮文庫版による。

「私は、今、この瞬間、別の場所で同時に生きている誰よりも、豊かな人生を送っている。(中略)馬鹿な失業者はもちろんのこと、自分ではうまくやっていると勘違いしている泥棒や宗教家、とにかく、今、この瞬間に生きている誰よりも私は豊かに生きている」(p.14)


これが冒頭から飛び出す。強調されているのは「今、この瞬間」。
この時点で既に時間軸がズレているにも関わらず、「同日の出来事」であると錯覚してしまう。
さらに、この台詞が終わると同時に場面が転換し、「黒澤」パートが始まる。黒澤が泥棒であることは言わずもがなで、「自分ではうまくやっていると勘違いしている泥棒」が効果的に作用していることがわかる。
「馬鹿な失業者」や「宗教家」が誰を指すのかも、明白だ。


他にも、「プラカードを持った白人女性」や「『何か特別な日に』の展望台とエッシャー展」も同じ役割を果たしている。


では初読で、時間軸がズレた構造に気づくことは可能なのだろうか。
実は「プラカードを持った白人女性」の髪型が唯一の手がかりとなっている。
順番に見ていく。


「黒澤」パート

金髪をポニーテールにした若い女性だ。(pp.18-19)


「河原崎」パート

ポニーテールの白人女性は美しかった。(p.35)


「京子」パート

髪を真っ直ぐに垂らし、それが似合っている。(p.88)


「黒澤」パート、「河原崎」パートと、「京子」パートで髪型が変わっているのだ。
無論、一日中同じ髪型でいないといけない決まりなどない。
しかし、叙述だけが手がかりとなる小説において無意味な違和感は避けるべきで、ここを突破口にするしかない。
なお、「豊田」パートでは、白人女性と2回出会うが、1回目は髪型への言及がない。2回目は物語の最終盤で、これ見よがしに髪型の記述があり、読者は地団駄を踏むことになる。


「豊田」パート

結んだ後ろ髪も似合っていて可愛らしい。(p.450)


一方で、あたかも構造を示唆するかのような、メタ的な台詞が散りばめられている。
あまりにも数が多く、終盤にかけては構造に気づかせるためにさらに数が多くなる。
いくつかあからさまなものを抜粋する。

「こんな単純な話だって、ちょっと軸をいじられると訳が分からなくなっちまうだろう?」(p.83)

「バラバラ」と「くっつく」は何の暗喩だろう。(p.96)

戻って、落ち着いて確認すれば、案外と大したことではないものなのよ。(p.387)


個人的には、某パートの主人公が「話を取り違えないでください」と言われる台詞がお気に入りだ。どのシーンかは探してみてほしい。


ラッシュライフ』を初めて読んだときの衝撃は、もう体験することはできない。
一方で、読むたびに新しい発見を楽しむこともできている。


今回提示したものは、基本的な構造だけだ。
他にも語りたいことはたくさんあるが、それに気づいたときの驚きを楽しんでもらうためにも取っておきたい。


繰り返しになるが、本ブログではネタバレ断固反対の皆様にも配慮をするのでご安心を。

0冊目:群像小説ぜんぶ読む

 

「群像小説」について

「群像劇」という名称をご存知だろうか。

映画『グランド・ホテル』で効果的に用いられたことから、「グランドホテル方式」と呼ばれることもある。

鹿島茂氏によると、「グランドホテル方式」は以下のように定義される。

ホテルのような一つの大きな場所に様々な人生模様をもった人たちが集まって、そこからストーリーが紡ぎ出されるというスタイル*1

映画から名前が取られていることからもわかるように、カメラによる俯瞰が容易である映画が得意とする手法だ。

しかし、映画に限らず、小説や漫画、ゲーム、演劇においても、「群像劇」は数多くつくられている。

 

鹿島氏の説を踏まえて、「群像劇」を含む小説=「群像小説」を、本ブログでは以下に定義したい。

①3人以上の登場人物の視点で描かれる。

②各視点人物が持つ物語が描かれる。

③全体の構造を把握可能なのは「神の視点」を持つ作者(およびそれに該当する登場人物)と読者のみ。

 

定義があれば、それに付随した定理も生まれる。

①主人公をひとりに特定できない。(「事件」や「場所」が主人公になる場合もある)

②ひとりの視点人物のパートを連続して読んでも物語が成立する。

③バラバラな物語がつながる快感を得られる。

 

上記3点(+3点)をすべて満たした作品を、本ブログでは「群像小説」と呼ぶ。

そのため、複数の登場人物に物語がある場合でも、視点人物がひとりに固定(主人公化)されているものは「群像小説」と呼ばない。(例:主人公による友人のエピソードトークなど)

同様に、物語を補強するために、一時的に視点人物が増えるものも「群像小説」ではない。(例:探偵小説における犯人の自供など)

 

さらに、「群像小説」は「雷型」、「雨型」、「雷雨型」に大別される。


・雷型

各視点人物を短い間隔で行き来する。

視点人物Aの物語が3パートに分かれているとすれば、3パートを通読することで物語が成立する。

頻繁に場面転換が繰り返され、焦らし効果が読む原動力となる。

各視点人物の物語がつながったときの快感は大きいが、 途中で投げ出されるリスクは高い。

「忘れる」→「思い出す」の構造をつくりやすく、伏線の回収が容易である。

終盤は伏線回収ラッシュになりがち。


・雨型

視点人物の異なる連作短編がこれにあたる。

各視点人物の章が独立しているため、1パートだけでも物語が成立する。

その性質上、 短編で新人賞を受賞した作家が書籍化に際し書き足す場合や、読み切り短編が基となっている場合が多い。

各章で世界観や設定の共有が行われる一方、ワンパターンになるケースも多い。


・雷雨型

雷型と雨型のハイブリッド、該当する作品は多くない。

連作短編の形をとっているが、同じ視点人物のパートが2回以上登場するもの。(ひとつの物語を前後半に分けているのではなく、ふたつの物語がある)

 

参考画像

f:id:overshow:20190826110703p:image

 

群像小説の現在地

 さて、無事に定義が済んだので、以降は鍵括弧を用いずに群像小説と書くことにする。

一口に群像小説と言っても、その種類は豊富である。容疑者の視点が次々に切り替わる「群像ミステリ」や、甘酸っぱい恋の矢印が縦横無尽に張り巡らされた「青春群像劇」、群雄割拠の時代小説も群像小説になるケースが多い。思い当たる作品のひとつやふたつ、挙げることは造作もないだろう。

ところが、群像小説という独立したジャンルは存在しない。読者の関心は、「群像ミステリ」なら「ミステリ」、「青春群像劇」なら「青春」にあり、多くの場合「群像劇」はおまけにすぎない。

 

これは由々しき事態である。

 

今さらだが、こんなブログを開設してしまうくらいだ。私は群像小説が好きだし、願わくば群像小説だけを読んで一生を終えたい。

しかし、現状ではそれは叶わない。繰り返しになるが、群像小説という独立したジャンルは存在しない。「○○社群像文庫」なんてレーベルは存在しないし、「群像新人文学賞」は群像小説を募集しているわけではない。

検索エンジンに【群像小説】と入力すれば、有名作品がいくつか出てくる。便利な時代になったものだ。

いくつか、と書いた。そう、いくつか、しか出てこない。群像小説は世の中に溢れているはずなのに、群像劇に主眼を置いていない作品は、【群像小説】のフィルターに引っかかってこないのだ。これでは群像小説が埋もれてしまう。

 

喩えるならば、群像劇は米だ。何にでも合う。合ってしまう。カレーライスやカツ丼は美味しいが、米が目当ての人は少ない。

その料理を見れば、米が使われているかは一目瞭然であるように、あまたの小説から群像小説を探すことも特別難しいことではない。あらすじに「群像」と明記されていることもあれば、登場人物名ごとに章立てされていることもある。

ただ、米粉パンという食べ物がある。米粉パンには米が使われているが、米粉パンだと言われなければ、見た目では判別がつかない。日本酒だって米だ。

同じように、何食わぬ顔で小説然と振る舞っているくせに、群像劇が混ぜ込まれているタイプの群像小説もある。それらは一定ページ読んでみてようやく、群像小説だとわかる。

書店に赴き、あらすじと目次を1冊ずつ確認するのならまだ良い。それに加えて、それぞれ数十ページ読み、群像小説か否か確かめる労力はさすがに避けたい。ましてや群像小説っぽいという理由だけでの購入はリスクが大きい(今しがた、群像小説っぽい新刊に一目惚れして購入したので説得力がない)。

 

群像小説ぜんぶ読む

驚くことなかれ。ここまで前置きである。

名は体を表すとはよく言ったものだ。タイトルにも書いてあるとおり、群像小説をぜんぶ読みたい。ぜんぶが無理なら、可能な限りたくさん。

幸いなことに、群像小説大好きアピールをし続けた結果、友人たちの協力により、たくさんの作品を教えてもらうことができた。集合知万歳。

ただ、数が限られている以上、いつかは読破してしまう日が訪れるだろう。そうなる前に、読みきれないほどの群像小説を知る必要がある。

 

ここからはお願いになるので口調が丁寧になります。

ブログの仕組みがわからないが、コメント機能のようなもので、新しい群像小説を教えていただければ幸いです。あらすじでは判断できないものだともっと嬉しいです。

よろしくお願いします。

 

※9/16追記

Twitterと連携した「お題箱」に募集用のフォームを作成しました。

https://odaibako.net/u/over_x_show

 

元に戻る。

今回の記事は便宜上「0冊目」としたが、「1冊目」以降は読了した群像小説のレビューになる。どういう形にするかは目下検討中だが、以下のような構成を考えている。

 

・未読者向けの紹介(ネタバレ無)

・次回予告

※※以下、ネタバレを含みます※※ 系の文言

・既読者向けの解説(ネタバレ有)

 

群像小説好きがひとりでも増えることを願いつつ、群像小説を1冊でも多く読めるように。

そんなブログになればいいな。

 

次回予告

1冊目:伊坂幸太郎ラッシュライフ

ラッシュライフ (新潮文庫)

ラッシュライフ (新潮文庫)