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2020年4月24日の伊坂幸太郎『逆ソクラテス』

逆ソクラテス

逆ソクラテス


伊坂幸太郎さんの最新刊、『逆ソクラテス』を読んで感じたことを書きます。
ストーリーの根幹に触れることはありませんが、せっかくなので読んだうえでブログを読んでほしいです。
同じことを感じる人が、絶対いると思うので。


まずは所感から。
前提として、私は伊坂幸太郎さんが書く作品を愛している。極端な話だが、「伊坂幸太郎」名義で世に出た作品であれば、それだけで基準値を大幅に上回る好きが溢れる。そのうえで、さらに好きな作品や、そこまでハマらなかった作品などに、分類される。


『逆ソクラテス』は、残念ながら「そこまでハマらなかった作品」に分類した。
いちばん大きな理由は、過度に楽しみにしすぎていたことだと自覚している。
昨年末、『このミステリーがすごい! 2020年版』の名物企画、「私の隠し玉」にて、短編集が刊行されることが明かされた。
年明けにはタイトル、装幀、収録作品と徐々に全容が見えてきて、期待は膨らむばかりだった。膨らませすぎた。


ただ、若干の危惧もあった。
それは短編集であるという点だ。
もちろん短編もおもしろいが(考えてみれば、デビュー15周年時の『ジャイロスコープ』も短編集だった)、短編集は1冊の枠組みの中に比較対象を作ってしまう。
いちばん好きな一編があるとすれば、2番手、3番手と自然にランキングができる。
すると何が起きるのかといえば、よほど1番手が飛び抜けていない限り(あるいは全体的に平均以上でない限り)、1冊で均したときに偏差値50に落ち着いてしまう。


『逆ソクラテス』に関しては、当然のように全編のクオリティが高く、すべてに共通した「逆転の発想/逆転劇」はとても気持ち良いものだった。
それでも一抹の物足りなさを感じてしまったのは、むしろ短編としてのクオリティが高すぎたからなのかもしれない。


『逆ソクラテス』としての所感はそんなところだ。
以下に、それぞれの短編の好きなポイントを挙げる。


「逆ソクラテス……風呂敷を広げて広げて、広げきったところで畳んでいく、短編ならではのスピード感。ターボエンジンみたいな作品で、『逆ソクラテス』の始まりにふさわしい。


「スロウではない」……リレーのシーンが最高。逆転劇の中ではいちばん気持ちよかった。そのぶん、終盤の展開にもやが残る感じはあった。後味があまりよくない余韻は、以降への架け橋となっている。


「非オプティマス」……ここから書き下ろし。連作風にするのかと思っていたが、あくまで独立した短編。これはラストの余韻がいい。どちらにも想像できる。


「アンスポーツマンライク」……いちばん好き。完成度がすごい。最後のリフレインがずるい。この5人の話はもっと膨らみそうだし読みたいけれど、時間の飛ばし方的に難しいか。


「逆ワシントン」……これは台詞回しが好き。ただ、短編として見ると、『逆ソクラテス』のラストを飾る作品にはなりきれていない気がした。


以上です。
全編に共通しているのは、明確な否定をしないこと。どれも教訓が含まれているが、それが厚かましくなくて、「私はこう思うよ」くらいの距離感に終始しているのが良かった。


ここからは大いに脱線する。
伊坂幸太郎は仙台在住の作家で、東日本大震災の被災者になる。当時のことは『仙台ぐらし』などで詳しく書かれている。

三月、あの地震があって以降、僕はしばらく、小説が読めなかった。(中略)娯楽とは、不安な生活の中ではまったく意味をなさないのだな、とつくづく分かった。だから、これからいったいどういう小説を書くべきか、という悩み以前に、もう、小説を書くこともできないだろうな、とそういう気持ちにもなった。
とはいえ、それから二ヶ月以上が経ち、僕は小説を書いている。(中略)
震災後の情報で、「知っておいて良かった」と癒されたものはほとんどなかった。(中略)それならば、小説を読んでいたほうがよほど豊かな気持ちになれたのではないか。開き直りではあるけれど、フィクションにも価値はあるのかもしれない、とその頃から少し思うようになった。(伊坂幸太郎『仙台ぐらし』「震災のこと」pp.179~180)

2011年3月11日14時46分、伊坂幸太郎は行きつけの喫茶店で小説を書いていたという。まさにその瞬間に小説を書いていた事実が、2ヶ月もの間、伊坂幸太郎を悩ませた原因であるのかもしれない。
「震災のこと」は、「僕は、楽しい話を書きたい」と結ばれる。


そして、伊坂幸太郎の「以後」第一作となったのが、2011年11月から翌年12月まで朝日新聞夕刊に連載された、『ガソリン生活』だ。『ガソリン生活』は、車たちが会話をするという、底抜けに明るい、「楽しい話」だ。そこに震災の影はない。
また、阿部和重との合作で2014年に刊行された『キャプテンサンダーボルト』でも震災は描かれない。物語は2012年8月27日から始まり、2014年6月3日で終わる。舞台は仙台と山形、及びその中心にある蔵王
にも関わらず、だ。
『キャプテンサンダーボルト』の文庫化に際して行われた両者のインタビュー記事を引用する。

伊坂 最初の打ち合わせの時に「震災の話はどうします?」って、編集者が聞いてくれたんですけど、二人とも「入れるのはやめよう」とすぐに決めたんですよね。僕らの作品の場合はないほうが逆に、伝わる気もするんですよね。
阿部 震災に関しては直接触れていないですけども、できあがった作品を改めて見てみると、震災と結び付いていく要素が実はたくさんあるんじゃないかなという気もしているんです。例えば、放射能って目に見えないじゃないですか。つまり我々は、基本的には情報として触れるしかない放射能に右往左往させられてきた。それはこの作品に出てくる「村上ウイルス」の影響と似ている。情報に怯え、情報に翻弄される登場人物たちの状況そのものが、震災以降の社会の雰囲気を直接反映していた面があるのかもしれないなと、今になって感じるところはありますね。

ddnavi.com


震災を描かないことで、震災を立ちのぼらせる。この手法は、阿部和重が戦争そのものを描かずに戦後を書いたやり方にも似ている。両者はけっして震災から目を背けたわけではなく、我々の深層に棲みつく震災を我々自身の読みによって、見つめ直させようとした。


それからさらに時が経ち、伊坂作品にはじめて震災の記述が出てきたのは、『フーガはユーガ』(2018年)だった。
今、手元にないので確認できないが、記述があったことは憶えている。


話は『逆ソクラテス』に戻る。
発売日の2020年4月24日を数年後に振り返ったとき、我々は「コロナ禍の真っ只中」だったと認識することだろう。2020年の上半期、最悪の場合、2020年そのものを、そう認識している可能性もある。
震災とは異なり、ある日を境に劇的に世界が変わる感覚はない。それでも、徐々に世界は変容し続けている。


表題作の「逆ソクラテス」にこんな一節がある。

先入観を、と僕は念じていた。そのバットで吹き飛ばしてほしい、と。
伊坂幸太郎『逆ソクラテス』「逆ソクラテス」p.56)

『逆ソクラテス』は、残念ながら「そこまでハマらなかった作品」に分類した、と書いた。
そうだ。私は心のどこかで期待していたのだ。
『逆ソクラテス』が、いろいろな悩みや不安を吹き飛ばしてくれるのではないか、このどうしようもない世界をひっくり返してくれるのではないか、と。


残念ながら、特にこれから読む人にとっては残念だろうが、『逆ソクラテス』を読んでも、このどうしようもない世界はひっくり返ってくれない。
だけど、自分を中心に回るちっぽけな世界は、自分次第でひっくり返すことができる。
単行本のオビには「世界をひっくり返せ!」と書いてある。そう、ひっくり返すのは自分だ。
『逆ソクラテス』は、そういう勇気をくれる作品が集まっている、最高の短編集だ。