群像小説ぜんぶ読む

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最後の読書会(伊坂幸太郎『ホワイトラビット』)


※本記事は伊坂幸太郎『ホワイトラビット』のネタバレを含みますが、まずは「自分語り」をお届けします。


2020年6月24日、伊坂幸太郎『ホワイトラビット』(新潮文庫)が発売されました。
単行本が発売された17年9月は、私にとっての節目でした。
親元を離れ、ひとり暮らしを始めたのです。
待てど暮らせどひとりきりの部屋には、引っ越しの荷物が散乱し、足の踏み場すらないような状況でした。
座れるだけのスペースを確保して、縮こまるようにして、一心不乱に、取り憑かれたように読んだのが、『ホワイトラビット』です。


『ホワイトラビット』の表紙には、「a night」と書かれています。
表紙の「a+○○」は、新潮社×伊坂幸太郎の定番。物語のことを表しているようでいて、それにしては抽象的な距離感が絶妙です。
『ホワイトラビット』で描かれるのはまさに「ある夜」の出来事。
奇しくも、私が『ホワイトラビット』を読んだのも、そんな「ある夜」のことでした。


単行本の発売から2年9ヶ月の時を経て、『ホワイトラビット』が文庫化。
これは私の一人暮らし歴とも重なるわけです。
この期間にはいろいろなことがありました。10代から20代になり、大学を卒業し、社会人になりました。
忘れてしまったことや、忘れてしまいたいことも多々ありますが、それでもいまだに「ある夜」の衝撃を思い出すことができます。


後述する事情により、今年の2月に『ホワイトラビット』を読み返しました。「ある夜」ほどの衝撃こそなかったものの、細部の巧妙さは何度読んでも薄れることがありません。
とはいえ、これから読む人は、やはりちょっと羨ましいですね。


閑話休題
『ホワイトラビット』は、「このミステリーがすごい!2018」2位、「週刊文春ミステリーベスト10」3位、「本格ミステリ・ベスト10」8位と、各種ミステリ賞においても好成績を収めました。プロ野球選手であれば、来シーズンの年俸をガッポリ貰えるであろう成績です。
ところが、その上をいく三冠王(厳密には「第18回本格ミステリ大賞」も受賞し四冠)のバケモノが立ち塞がりました。
それが、今村昌弘『屍人荘の殺人』です。


『屍人荘の殺人』についての記事はこちら。
overshow.hatenablog.com


上記は、私が所属していたサークルで行った読書会を基に再構築した記事です。
読書会のメインテーマを、「『屍人荘の殺人』はなぜこれほど売れたのか」と設定し、サブテーマとして「籠城(立てこもり)小説」を扱いました。
当初の予定では、「籠城小説」をメインに据えて、『屍人荘の殺人』を副読本のポジションにしていました。しかし、『屍人荘の殺人』が考察ポイントに溢れていたこと、『ホワイトラビット』が文庫化していないこと、を理由に方針転換をしました。


もし私があと1年大学に留まっていたとすれば、このたび文庫化した「『ホワイトラビット』読書会」を開いたことでしょう。
ただ、それも叶わぬ夢なので、2月の読書会では最後に参加者に課題本を与えました。


それが、伊坂幸太郎『ホワイトラビット』。
ということで、以下は『ホワイトラビット』読了後にお読みいただきますよう、お願い申し上げます。
読書会っぽくやります。

1.伊坂幸太郎と籠城ミステリ

思えば、伊坂幸太郎は「籠城もの」をたくさん書いてきました。
『ホワイトラビット』のあとがきでも次のように語っています。

籠城物、人質立てこもり事件の話を今までにいくつか書いてきたので、このあたりでその決定版を(後略)(文庫p.349)

『終末のフール』所収の「籠城のビール」はまさに、ですし、『チルドレン』所収の「バンク」も印象深いですね。
デビュー作『オーデュボンの祈り』も、広義の籠城ものといって良いでしょう。


ところで、「籠城」とは「城にこもり敵と戦うこと」を意味します。そのため、立てこもった後で警察官に包囲されるような場合は、後から敵の存在が発生しているため、厳密には籠城と呼べません。
ただ、そういうのは面倒なのでどちらも籠城としましょう。
籠城ミステリの魅力は、最初から絶体絶命の状況に置かれていることに尽きます。そのピンチをいかにして打開するかが肝になってきます。
そのため、ハウダニット(どうやって打開するか)や、ホワイダニット(なぜ立てこもったのか)と親和性があります。


籠城ミステリの概略はこんな感じです。
それでは、『ホワイトラビット』の話に移りましょう。

2.『ホワイトラビット』徹底解説①〜最初の1段落に全てが詰まっている〜

とりわけ初期の伊坂作品は、村上春樹と重ねて論じられることがしばしばあります。
例えば『アヒルと鴨のコインロッカー』では主人公が書店を襲いますが、これは村上春樹パン屋襲撃」/「パン屋再襲撃」を連想することができます。
また、同作には尻尾の形状から名づけられた「シッポサキマルマリ」なる猫が登場しますが、これは村上春樹ねじまき鳥クロニクル』の、「尻尾の先が少し曲がって折れてる」猫(ワタナベ・ノボル)とも重なります。


このようなモチーフの一致は、鶏が先か卵が先かみたいな話ですが、それ以上に、文体についての指摘が多くあります。

『重力ピエロ』は「村上春樹の文体で書かれたミステリ」などと評されました。伊坂自身がどの程度意識しているかはともかく、ノーブルな、だが常に微温的なアイロニーを備えた彼の文章には、確かに春樹とも相通ずる、他のミステリ作家とはひと味違うテイストがあります。(佐々木敦『ニッポンの文学』)


伊坂自身は次のように語ります。

実は僕は村上さんの作品をそんなに読んだことがないんです。(中略)大江さんの初期の頃の作品とか、明らかに影響を受けている気がしますし。(文藝別冊『総特集 伊坂幸太郎』)


章の頭に「とりわけ初期」と書きましたが、確かに初期の作品は「村上春樹っぽい文体」のように感じられます。
一方で最近の作品に関しては、そういう論調はあまり見かけません。
これは伊坂幸太郎という作家の地位が確立されたことが、大きな要因といえるでしょう。知名度、人気度ともに、押しも押されもせぬ作家になったことで、若手のころにされたような「大御所との比較」をされなくなりました。
むしろ、これから出てくる若手作家が、「伊坂幸太郎っぽい文体」と評される可能性は大いにあるでしょう。


さて、比較がされなくなった今だからこそ、あえて比較をしましょう。
というのも、『ホワイトラビット』の第1段落は、村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の、あのエレベーターの描写を彷彿とさせる「まどろっこしさ」に溢れているのです。


『ホワイトラビット』がこちら。

白兎事件の一ヶ月ほど前、兎田孝則は東京都内で車を停め、空を眺めていた。「白兎事件の一ヶ月ほど前」という言い方は間違っているのかもしれない。その場面は白兎事件の一部で、事件の幕はすでに上がっているとも言えるからだ。ただ、それを言うならそもそも世間で、仙台市で起きたあの一戸建て籠城事件のことを白兎事件と呼ぶ人間など一人もいないのだから、細かいことは気にしないほうがいい。(文庫p.5)

1文ごとに見ていくと、
①提示
②否定
③否定の補足
否定の否定(ただし①提示の肯定にはならない)
となります。4文進んで3文退がっているので、残るのは「①提示」だけです。


続いて、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』。

エレベーターはきわめて緩慢な速度で上昇をつづけていた。おそらくエレベーターは上昇していたのだろうと私は思う。しかし正確なところはわからない。あまりにも速度が遅いせいで、方向の感覚というものが消滅してしまったのだ。あるいはそれは下降していたのかもしれないし、あるいはそれは何もしていなかったのかもしれない。ただ前後の状況を考えあわせてみて、エレベーターは上昇しているはずだと私が便宜的に決めただけの話である。ただの推測だ。根拠というほどのものはひとかけらもない。十二階上って三回下り、地球を一周して戻ってきたのかもしれない。それはわからない。
村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)』p.11)

同じように見ていくと、
①提示
②提示の補足
③否定
④⑤否定の補足
否定の否定(ただし①提示の肯定にはならない)
⑦⑧否定の否定の補足
⑨例示
⑩例示の否定
となります。10文進んで9文退がる。すごすぎて意味がわからない。
語られるエレベーターと同じように、上っているのか下っているのか(進んでいるのか退がっているのか)わからないように描かれますが、文章自体は確実に1文だけ進んでいます。


こういうまどろっこしい文章を読み解く鍵は、実は「①提示」ではなく、最後に隠されています。
つまり『ホワイトラビット』のキーワードは、「細かいことは気にしないほうがいい」。
それは、「トリックの細かい部分には目を瞑ってね」という意味ではありません。「一言一句、伏線を意識しながら読まなくても大丈夫だよ」という意味です。
読者は、ただページを前に前に、進んでいけば良いのです。


実際に、『ホワイトラビット』の語り手は作者とニアイコールで、読者が読みやすいように(それは騙されやすいように、でもありますが)導いてくれます。
私たちはその流れに逆らうことはできません。
この「陽動システム」こそが、伊坂幸太郎の真骨頂といえます。

3.『ホワイトラビット』徹底解説②〜もはや伝統芸能と化した風呂敷テクニック〜

伊坂幸太郎といえば伏線、伏線といえば伊坂幸太郎、という言葉があります。
嘘です。
でも、あってもおかしくない。


デビュー作の『オーデュボンの祈り』もハイレベルでしたが、2作目の『ラッシュライフ』ですでに高みに到達した感じがあります。
ラッシュライフ』の記事はこちら。
overshow.hatenablog.com


理由は知りませんが、伏線のたとえとして、風呂敷が用いられることが多々あります。「広げすぎ」や「畳めていない」など、ネガティブな言い回しとセットで使われることも。
『ホワイトラビット』でも、風呂敷は「広げすぎ」といえます。はじめからずっと風呂敷を広げまくります。
途中でちらっと畳むこともなく、広げて広げて……そしてある地点に行き当たります。

つまり、今それを落とした男は、読者が見抜いていたように、黒澤にほかならない。(文庫p.237)

黒澤が折尾になりすましていたこと、「本物のオリオオリオ」が亡くなっていることが矢継ぎ早に明かされます。その後もあれよあれよと風呂敷が畳まれていき、気づいたら元に戻っています。


おわかりでしょうか?
あの冒頭の、「4文進んで3文退がる」と同じ構図が、物語全体でも繰り広げられているのです。300ページ強の物語を経ても、何かが大きく変わることはありません。
最後に主要人物の後日談が挿入されることからも、「白兎事件」はあくまで「a night」(=ある夜)の出来事であり、「日常の中の非日常」性が強調されています。


話が戻りますが(風呂敷なので)、「伊坂幸太郎といえば伏線」と知らない人が読んだとき、p.237まで耐えられるのか、という疑問があります。
私自身はもう職業病みたいなもので、「ぜったい何かがある」とワクワクしながら読めるので、200ページくらいどうってことはありません。ただ、「いったい何が起きているんだ?」と思っていたことは事実です。あまりにも風呂敷が畳まれなさすぎて、「おいおい、大丈夫か?」とも思いました。
それでも我慢できたのは作者を信頼しているからで、そうではない人たちが読んだときにどうなるのだろう、と気になります。
いちばん不幸なシナリオとしては、途中で挫折し、「どこがおもしろいのだろう」とネタバレを踏んでしまうこと。その瞬間に、感じられたはずのおもしろさが消失してしまいます。


とはいえ、そこは押しも押されもせぬ人気作家。前提として挙げた「伊坂幸太郎といえば伏線」と知らない人が、そんなにはいないだろうという思いもあります。
その「自信」はあらすじやオビからもうかがうことができます。仮にこれが無名の作家の著作であれば、「◯ページまでは読んで!」のような宣伝文がくっついてくるでしょうから。
つまり、「村上春樹っぽい文体」と評されていた伊坂幸太郎が、およそ20年の時を経て、その名前だけで物語を読んでもらえる作家になったのだといえます。
その極地に到達した過程を考えたときに、やはり風呂敷テクニックが大きな役割を果たしているといえますし、伊坂幸太郎という大きな風呂敷はもっと広げていってほしいな、と思います。

4.『ホワイトラビット』まとめ

読書会にしてはあまりにも短く消化不良ですが、ブログとして読むならこれくらいが良いでしょう。
「徹底解説」と銘打ちつつ、文体や構造の話をして、内容には一切触れませんでした。
それは、「読めばわかる」からに他なりません。
時間をあけて少しずつ読み進めたら混乱するかもしれませんが、全編通して読めば、内容に関して疑問に思うところはないはずです。


解説と銘打ったブログを読むくらいなら、もう一度読んで自分で発見したほうがよほど楽しいですよね。
『ホワイトラビット』はこのうえなくまどろっこしいですが、難しくはありません。
おまけに、最初から最後まで作者に掌握されているため、読者それぞれの解釈みたいなものが存在しません。たったひとつの、それも「読めばわかる」読み方しかありません。


ここまで書いてようやく気づきました。
なんと「読書会には不向きな小説」なのだろうと。1年大学に留まらなくて良かった。
というわけで、「最後の読書会」はこれにて閉幕です。


せっかく「最後の読書会」が終わるところなのだから、気の利いたセリフで締めてもいいように感じるが、もちろん私はそんなことをせず、実際のところ、そうならなくとも幕はおりる。




そして、また上がる。