群像小説ぜんぶ読む

古今東西の群像小説をぜんぶ読みます。群像小説以外の気になった作品を紹介することもあります。群像小説以外の気になった作品以外の普通の記事も投稿します。

2冊目:芥川龍之介『藪の中』

藪の中 (講談社文庫)

藪の中 (講談社文庫)

紹介

わたしが搦め取った男でございますか? これは確かに多襄丸(たじょうまる)と云う、名高い盗人でございます――。馬の通う路から隔たった藪の中、胸もとを刺された男の死骸が見つかった。殺したのは誰なのか。今も物語の真相が議論され続ける「藪の中」他、「羅生門」「地獄変」「蜘蛛の糸」など、芥川の名作、6編を収録。


※扱うのは表題作「藪の中」のみになります。


初出は1922年。およそ1世紀前の作品だ。
2020年2月に「藪の中」について考察するブログがあるなんて、芥川さんは思いもしなかっただろうな……。
いや、芥川さんのことだ。後世に脈々と語り継がれる作品となることを予期していたはずだ。
というのも、「藪の中」について書かれた論文数は、芥川作品の中でも屈指。議論が議論を呼び、呼ばれた議論がまた呼んで、呼んでないのに飲み会に来るやつってなんなの?
とにかく収拾がつかない。


議論のタネはあらすじにもあるが、「真相は果たして」という点に尽きる。
「藪の中」で描かれるのは、殺人と強姦のふたつの事件。それらを巡る、4人の目撃者と3人の当事者による独白がまとめられている。
つまり、視点人物が7人の、雨型の群像小説である。
(雨型については、「0冊目:群像小説ぜんぶ読む」を参照のこと)
overshow.hatenablog.com


雨型は構造がわかりやすい。「藪の中」は短いし、青空文庫で読める。
群像小説入門にうってつけ!
と太鼓判を押したいところだが、数多の論文が書かれるくらいの作品だ。一筋縄ではいかない。というか、モヤッとする。読後の爽快感がない。群像小説ならではの、つながる感覚もない。群像小説のおもしろポイントをそぎ落としている。


とはいえ、「真相は果たして」問題が立ち現れるのは群像小説ならではだし、群像小説という構造はだいたい押さえられる。
構造好きな私みたいな変態は黙って読めばいいし、これじゃあ群像小説の良さがわからないよ……ってピュアピープルは、下の次回予告を参照し、楽しみに待たれよ(更新はいつになるだろうか)。

次回予告

阪急電車 (幻冬舎文庫)

阪急電車 (幻冬舎文庫)

解説

多襄丸が武弘を縛り、真砂を強姦したところまでは、3人の当事者の証言は一致する。少なくともここまでは真実と見て良いだろう。
その後は、どうにでもなるし、どうにもならない。
投げやりで申し訳ないが、テクスト論については論文を当たってほしい。


おもしろいな、と感じたのは、容疑者3人が「自分が犯人である」と主張する点。一般的なミステリでは、容疑者は「自分は犯人ではない」と主張することがほとんどだから。

参考:東野圭吾私が彼を殺した』は雷型の群像小説であり、3人の容疑者が「私が彼を殺した」と主張する。いずれ紹介します。


芥川さんがどういう意図で書いたのかは、想像することしかできない。
おそらく真相をぼやかすことが目的だったのだろうけど。たぶん目論見通りだ。
状況設定自体は非常にシンプルだから、学生の教材としても用いられているようだ。ディスカッションのいい練習になると思う。


ブログの体裁をとっている以上、私の思考回路について書き記したうえで筆を置きたい。


ポイントは3人が他の2人の証言を聞いていない点にある。全ての証言を把握可能なのは、読者(と、おそらく検非違使)だけだ。
この群像小説の性質が、落とし穴になっている。
繰り返しになるが、3人は他の2人の証言を聞いていない(が、群像小説の構造上、別の話がつながっているように見え、全員が同じ空間にいるように錯覚してしまう)。


2人がそれぞれ別の証言によって1人を庇おうとしたせいで、証言が食い違ってしまった。
仮に同じ場所に3人が集められて順番に証言していったなら、齟齬は生まれず、問題なく真相に辿りつけただろう。
では、その庇われた1人が誰かといえば、それがわからない。多襄丸、真砂、武弘、どのパターンにも当てはめることができる。
多襄丸を武弘が庇う理由は薄いが、庇ったためではなく、「決闘で負けた」事実を歪曲するため(自分を庇うことにつながる)と考えればしっくりくる。
武弘の場合は「死に方の美学」に則っただけで、本当に自死はしていないだろうな、とは思う。


最後に言いたいのは、(特に一人称視点の)群像小説には要注意ということだ。